〜 お坊さんコラム 〜
私の戦争体験
下島妙禮
昭和3年大阪市生まれ
東京都大田区本成院修徒
昭和3年大阪市生まれ
東京都大田区本成院修徒
大阪大空襲
私は大阪出身です。戦時中は「大阪市港区」という、大阪湾に近い地域に住んでいました。いま、『海遊館』という大きな水族館がある地域です。
当時の大阪は、日本の商業の中心地として、たいへんな活気がありました。元気のない今とは全然違いました。他府県から、たくさんの人がビジネスに観光に、やってくる街でした。
我が家の近くには『市立運動場』という施設がありました。当時は「東洋一の規模」とうたわれた、大きな陸上競技場です。港にも近いその近辺は、にぎやかな大阪の中でも、ひときわ若者に人気の地域でした。
そんな街で暮らしていた私にとって、“戦争”と聞いてまず思い浮かべるのは、あの『大阪大空襲』です。
私はその頃17歳、5年制高等女学校の4年生でした。
父は警察官でしたので、戦争が始まってからは非常時の招集の連続となり、家を留守にすることがほとんどでした。
私は5人兄弟の一番上でしたが、病弱で、いつもガリガリに痩せていました。
当時、イ・ロ・ハの病気といわれた、胃、肋膜、肺の病気は全部したほど、病気とは切っても切れない縁がありました。
そんな病弱な私でしたが、兄弟の長として、家族を必死に引っ張っていたつもりでした。踏ん張っていたつもりでした。でも本心では、かなり心細かったことは間違いありません。
昭和20年になると、大阪は頻繁に空襲に見舞われました。東京もたいへんな空襲だったようですが、大阪は街が小さい分、一回の空襲で、市内のほとんどがやられてしまう感じでした。
とくに蒸し暑くなってからは、毎日のように空襲があったと記憶していましたので、改めて調べてみたところ、昭和20年の3月13日から14日にかけて行われた、『第1回大阪大空襲』を始めとして、大空襲といわれる大規模な爆撃が、合計8回も行われていることが判りました。
とくに、6月以降は、毎週のように大規模な爆撃が行われていました。
第2回大空襲が6月1日、第3回が6月7日、第4回が6月15日、第5回が6月26日、第6回が7月10日、第7回が7月24日という具合です。
その他にも小規模な爆撃がありましたから、毎日のように空襲警報が鳴り響き、防空壕に逃げ込んだという記憶も、まんざら間違いではないようです。
ちなみに、空襲の時には必ず、雨が降った記憶があります。調べてみると、これはただの思い込みではありませんでした。
次のような仕組みで起こっていたことが、科学的に裏付けされています。
- 太平洋戦争当時の空襲には、焼夷弾という、発火性の薬物を中に詰めた、対象物を焼き払うことを目的とした爆弾が使われていた。
- この爆弾を使用されると、着弾地点の周辺一帯が火の海になる。この火災により煙が上がると、スス、地上の水分、油、粉じんなどが一緒に舞い上がる。
- これらが爆発による上昇気流に乗り上がっていくと、上空の冷たい空気に冷やされて、雲になる。そして、水分が冷やされ、雨粒となって落ちてくる。
- このときの雨には、油やスス、粉じんが混ざっているので、『黒い雨』が降る。
さて、大阪大空襲は、終戦直前の8月14日に行われた城東線の京橋駅、いまの、JR大阪環状線の京橋駅を狙った、『京橋駅大空襲』まで行われました。
翌日に降伏するとまでは、さすがの米軍にも判らなかったでしょう。でも、まもなく終戦するであろうことは想像できたであろうタイミングでの攻撃を、食い止めることはできなかったのか…。
みすみす、無駄にたくさんの命が失われていったとしか、言い様がありません。
一連の空襲で、一般市民だけでも10,000人以上もの尊い命が、失われたといわれています。
当時の近畿地方に住む者にとって、空襲の戦慄は、『紀伊半島』という言葉とともに、記憶されているはずです。
その頃は、いつでも緊急情報を得られるようにと、ラジオを一日中点けっぱなしにしていたものです。
そのラジオから突然、
「只今、敵爆撃機500機、10軍に分かれ、和歌山沖から紀伊半島上空に進入、北北東に航行中」
と、緊張した声が流れました。ほとんどが、夜間だったと記憶しています。
それが、じきに始まる、大空襲を知らせる第一報でした。
私の体験
間もなく、けたたましい空襲警報のサイレンが町中に響きます。私たち市民はすぐに灯りを消しました。いわゆる灯火管制です。
そして大急ぎで、でも、哀しいことにどこか慣れた感じで、急ぎ防空壕に避難したものです。
いまでも耳の奥に残る、B29編隊の轟音。背筋が凍るような、金属的な焼夷弾の落下音。深夜でも、まるで大花火かのように辺り一面を明るくする、大火事の恐怖。
体験した者にしか判らない恐怖です。『地獄絵図』という言葉がありますが、まさしくあの光景こそ、地獄絵図でした。
その所為か、私は長い間、花火が嫌いでした。花火の音も光りも、イヤでした。
とくに、6月1日の第2回大空襲は、港区を中心に『絨毯爆撃』が行われたため、私たち家族にとって、最も怖ろしい、忘れたくても忘れられない空襲になりました。
後に調べて判ったことですが、500機以上もの米軍機が、攻撃の中心地として狙いを定めたていたのが、まさに我が家のすぐ近くの『市立運動公園』だったのです。
我が家とは500mと離れていない施設が攻撃目標だったのですから、一帯が火の海になったのは、いうまでもありません。
この時、私は、衝撃的な光景を眼にしてしまいました。
我が家のまさに隣の土地を、焼夷弾が直撃しました。焼夷弾が落ちてくる音、その直後の爆発音と、もの凄い衝撃、圧力。それはまさに大きな地震のようでした。今思い出しても、ドキドキします。
それらを全身に感じたことで、自分はまだ生きているんだと理解した私は、おそるおそる辺りを見渡しました。
すると眼の前に、爆撃でバラバラに飛ばされた、人間のカラダの一部があったのです。ボロボロの服がひっついたままの人の肉片が、私の目の前の電線に引っかかり、ぶら下がっていたのです。
当時は、電柱も電線も低かったので、爆風で飛ばされたものがよく引っ掛かったものでした。
ひとの肉片を見ても、私は辛いとか怖ろしいとか哀しいとか、そういう感情はまったく持ちませんでした。
その時だけではありません。戦争中を通じてずっと、悲しみや恐怖といった感情は持たなかったといえます。
持っていたのは、ただ「次は自分の番かもしれない」という、冷めた感情だけでした。
これは、体験した人間にしか理解できないことかも知れません。
私はこの日の状況を、忘れたくとも、一生忘れることはできないでしょう。
これらは、私が体験したほんの一部に過ぎません。それでも、戦争による市民への無差別攻撃の怖ろしさについて、充分お判り頂けたことと思います。
ところが、戦争の恐ろしさは、攻撃による直接的な怖さ、痛みだけではないのです。
まず、長く異常な緊張状態が続くことで、精神的に疲弊します。私のように、感情を失うというのも、精神を疲弊させます。
家族が離ればなれになったり、大切な人を失うことで、大きな痛みを感じるのです。
私どもの家も焼かれて、住むことができなくなりました。その後しばらくは、弟妹たちは疎開して、一家は離れ離れになりました。寂しくて、妹たちが心配で、不安で仕方ありませんでした。
こういう精神的苦痛によって、心は追いつめられていくようでした。
妹を探す
ある空襲の後、私より5歳年下の次女が、学校から戻ってきませんでした。 当時妹は、女学校の1年生でしたが、夕方まで待っても戻って来なかったのです。私は不安になり、途中まで迎えに行くことにしました。
学校までは約15kmの距離です。通学路は判っていましたから、そこを歩いて行きました。
空襲を受けた町は、まさしく瓦礫の山でした。
道という道には、爆風で飛ばされ、熱線で焼け焦げになった死体が、累々と折り重なっていました。
死臭漂う中を、何人かの大人の男性が、おびただしい数の焼死体を、棒を使って一体一体ひっくり返しながら、歩き廻っていました。
彼らは、私と同じように、帰らない家族を捜していたのです。
焼け焦げた死体を見るのはさすがに怖くてイヤでしたが、妹を捜したい一心で、でも妹はそこには居ないでくれと願いながら、私も大人たちの後を、手を合わせながらついて行きました。
幸いなことに、死体の中に妹の姿はありませんでした。学校にいたのです。帰路の危険を考えた先生が、体育館に保護していてくれたのです。
学校で再会したふたりは、泣きながら抱き合って、無事を喜びました。
じつは、今でも、暗い町をひとりぼっちで、何かを探して歩き廻る夢を、よく見ます。
たぶん、あの時の記憶や強いショックが、私の頭の中にこびり付いているのでしょう。
父の死
戦禍で、大阪がさらに荒れ果てる頃になると、父が倒れました。無理がたたって、肺の病が原因で、亡くなってしまいました。
その時、二人いる弟のうち下の弟は、四国の香川県に学童疎開していました。当然、父の訃報は知る由もありません。
ところが、父が亡くなったまさにその夜、弟は、疎開先のお寺の廊下に、自分を見る父の姿を見つけたといいます。不思議な現象ですが、本当に見たそうです。
父からすると、弟だけがそばにいませんでした。幼い弟を心配する父の強い想いが、姿となって現れたのだと、私は思っています。
終戦後、大阪へ戻った弟は、この出来事を不思議に感じたそうですが、今でもその時のことは、鮮明に記憶しているそうです。
本門寺の逸話
ところで、戦争中の不思議な出来事といえば、皆様ご存じとは思いますが、本門寺にまつわるエピソードをひとつ紹介しておきましょう。
空襲の知らせが入ると、当時の池上本門寺の僧侶達には、急いでやるべき事がありました。日蓮聖人の御尊像に安全な場所に避難していただくべく、みんなで担いで、防空壕にお入れしていたのです。
五重塔や総門、経蔵などが空襲で焼かれていることからも判るように、本門寺周辺は、頻繁に爆撃を受けていました。ですから、それまでにも何度も、御尊像を防空壕にお隠ししたことがあり、へんな表現ですが、僧侶達にとって御尊像を防空壕にお入れすることなど、“慣れたもん”だったのです。
さて、池上周辺や大森、蒲田などの城南地区を目標とした、昭和20年4月15日の空襲では、大堂にも火が付いてしまいました。
いつものように、御尊像を防空壕にお入れすることになりました。この日は、当時池上に居られた故・大埜上人が担いで運ばれたと、記録に残っています。
ところが、この日に限っては、いつもはすんなり入るはずの防空壕に、なかなかお入れすることができませんでした。
時間はどんどん過ぎ、空襲は迫ります。大埜上人はやむを得ず、本堂裏手の墓地に、御尊像を一時避難させました。
じつはこの判断が大正解でした。いつも御尊像を収容していた防空壕は、空爆の直撃を受け、破壊されてしまったのです。
そこにお入れしていたら、御尊像は、間違いなく粉々に破壊されていました。
御尊像は4尺8寸、防空壕は6尺ですから、本来なら入らないわけはありません。でも不思議なことに、この日だけは入り口を通らなかった。防空壕を嫌がられたのでしょうか。お入れできなかったからこそ、御尊像は無事だったのです。
その頃で、造られて約650年に達していた御尊像がお持ちの仏の力に、ただただ感動する逸話として、宗門では知られているところです。
弟の決意
話しを戻しましょう。
食糧難もたいへんな問題で、私たちをじわじわと追いつめました。
先ほどお伝えしたとおり、昭和20年も夏になると、空襲警報の鳴らない日はありませんでした。
そのため母は、空襲の時にはすぐに防空壕に持って行けるように、あらかじめ昼間におにぎりを作って、取り置きしておくのが日課でした。
当時お米は配給制です。限られた量しかありません。母は、たいへんな思いをして、やりくりしていました。
ところが、私の二つ年下の弟は、当時15歳頃。まさに食べ盛りの少年でした。
「死んでしもうたら、もう何も食べられヘンようになるんやから、せめて生きてるうちに、お腹一杯食べたいわ」
と言っては、避難時のために取り置きしてあるおにぎりまで、食べてしまうのです。
母も私も、辛い思い、複雑な気持ちで、その姿を見ていたものです。
「この子には、お腹一杯食べさせてやりたい。でも、全部無くなった後、次の配給が来なかったら、どうしよう…」
人間の最も根源的な欲求である食欲が満たされないのは、それはそれは、辛い日々でした。
その弟がある日、
「海軍の特攻隊に入りたい」
と、相談してきました。『回天』という、いわゆる“人間魚雷”の搭乗員を育成する訓練所に、入隊したいと言ってきたのです。
その時点の弟は、入隊できる年齢には達していませんでした。
でも
「一日でも早く軍隊に行きたい」
と言って、引き下がりませんでした。
私は悩んだ挙げ句、決断をしました。
父が亡くなっていましたので、私が家の実印を使って、入隊試験の願書を作り、受験させたのです。
いまでいう『年齢詐称』ですし、『不実記載』とかいう罪に当たるのでしょう。
でも多くのひとが、たとえ歳をごまかしてでも、「お国のために死にたい」と考えていた、異常な時代でした。洗脳されていたのです。
弟は、見事にというべきか、合格しました。
入隊は 8月21日と決まっていましたが、その6日前に終戦を迎えたおかげで、出征することはありませんでした。
死なずに済んだにもかかわらず、一本気な弟は
「突撃したかったのに…」
と言っては、嘆いていたものです。
その弟もすでに亡くなりましたが、晩年に
「出征していたら、特攻隊やから必ず戦死やったな。そしたら、お母ちゃんが悲しんだやろうなあ。それだけでも、親孝行したんかなあ」
と、笑っていたのを想い出します。
高熱に冒されたような、平時では考えられない世の中の異常な雰囲気、洗脳された集団心理というものは、命さえ、何のためらいもなく捨てさせようとするのです。本当に、怖ろしいものですね。
妹の集団疎開
4人弟妹(きょうだい)のうち3人のハナシをしましたので、もうひとりの、一番下の妹のことも話したいと思います。
三女は、私と9歳違いです。当時は小学校に入ったばかりでした。
二度、家を焼かれてしまった私たちは、大阪の郊外に引っ越しました。
三女は、近くの小学校に転校しました。しかし、その転校先の子ども達は、別の場所に集団疎開した後でした。
結局妹はひとり家族と離れ、まだ会ったこともない同級生達が居る、集団疎開先のお寺に行くことになりました。
私が、妹を疎開先のお寺まで連れていく行くことになったのですが、家から距離にして3~4kmはあったでしょうか。小さい妹を連れて、不慣れな土地を行ったため、途中で道に迷ってしまいました。
すると妹は
「姉ちゃん、家に帰ろ。家に帰りたい」
と言って、泣き出してしまいました。
私も辛くて、哀しい気持ちで一杯でした。叶うものなら連れて帰りたいと、本気で思ったものですが、
「街にいたら危険やから、アカン。あんたは新しい学校におらなアカンねんで」
と、涙をこらえながら叱り、無理矢理連れて行きました。
そして妹を預けた帰り道、私は、ひとりで大声を出して泣きながら帰ったことを、憶えています。
父が亡くなり、兄弟もひとりひとりと離れていき、一家離散状態になりました。戦争は、家族をバラバラにしてしまうものなのです。
本当に辛い、淋しい時代でした。
叔父の戦死
戦争は、全てのひとを不幸に巻き込みます。
戦地に送られる男性は、想像を絶する恐怖と辛さを感じたでしょう。それは、耐え難い恐怖と闘う、生き地獄だといわれます。
一方で、その男性達を見送ることしかできない女性達もまた、辛く苦しい想いを抱いて、生きていました。
私の叔父に、学徒出陣で出征した者がいます。叔父が送られた戦地は、あの硫黄島(いおうとう)でした。
ご存じの方も多いでしょう。わずか1ヶ月あまりの闘いで、日本兵だけでも2万人近い兵隊が戦死した、悪名高き“硫黄島の戦い”で叔父は戦死しました。
『玉砕』などと、綺麗な言葉で表現されましたが、実際は壊滅状態、惨敗です。
もちろん、遺体は戻ってきませんでした。それでも国によって戦死が確認され、『勲八等白色桐葉章』を授与されました。
叔父は素晴らしい人格者でしたので、生きていれば、勲章をもらう以上の働きをし、世の中の役に立つ生き方をしたはずだと、私は強く思っています。
「命とも申すものは、いっさいの財の中に第一の財なり」とお経にありますが、その言葉の通りだと思います。
やはり激戦の地の沖縄では、「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」という言葉があるそうです。命こそ宝、という意味の言葉ですが、その通り、この地球上で命こそ最も大事なものだと、戦争体験者は思っています。
命を生かす
それから、当時の「お母さん」の中には、自分の子どもを傷つけてでも、徴兵を免れさせたひともいたといいます。息子さんの脚の骨を折って、兵隊に捕られないようにしたのです。
たとえ息子が不自由になろうとも、戦死させるわけにはいかないという強い強い、母の決意の表れといえるでしょう。
その事がバレて、村八分にあったひとも少なくないそうです。
女性の苦しみは、愛する者を見送る辛さだけではありませんでした。 よくいわれることですが、戦争の一番の被害者は、やはり女性と子どもだろうと、私は思います。
人の命の誕生は、何兆分の一という競争を勝ち抜いた精子が卵子と結びつき、数々の困難を乗り越えて、奇跡的にこの世に生を受けるものだそうです。それが私たち人間です。
さらには、私たちが住む地球そのものも、奇跡的な存在です。
宇宙は、超新星という星の大爆発が何度か起きて、その力で出来たものと考えられているようです。
私たちの太陽も、地球も、別の星の大爆発によってできたといいます。
そして、46億年より前に地球ができたた後、また、遙か彼方の星が爆発して、それによって隕石が地球に飛来し、衝突しました。地球は大きな爆発を起こします。そのエネルギーと隕石が運んできた様々な物質のお陰で、あらゆる生命が誕生したのです。すぐには理解できない、もの凄くスケールの大きな話しです。
地球のように、大気が有って水が有って、生命に溢れた星に、人間のような生命体が生まれてくる確率は、極めてゼロに近いといわれています。奇跡と奇跡が幾重にも積み重なって存在しているのが、私たちなのです。
ある芸人さんは常々、「生きてるだけで、丸儲け」と言っていますが、これは、笑いの中にも真理(しんり)を語った名言ですね。本当に、産まれただけで、生きているだけで、丸儲けです。
その命を、どう生かすか。せっかくの命の炎を大切に燃やしたいと思います。
ただ残念ながら、これまで人間は、命を生かしてきたとはいえません。主義主張のために、国家の名の下に生命を奪い合う戦争。欲望を満たすため、感情を暴走させたため、問答無用に他人の命や財産を奪い、壊す犯罪。卑劣で憎むべき行為のなんと多いこと。
しかし、愚かな行為を人間は止めることが出来ません。止めさせる方法も見つかりません。 どうやら、人間はあまり利口な生き物ではないようです。
私は、今こそ日蓮聖人の生き方から学ぶべきだと思います。
数々の法難にもくじけることなく、むしろどんどん強くなっていかれた日蓮聖人の、『強い信念』と『不屈の魂』を、今こそ学び実践するのです。そして、たとえば戦争反対、犯罪撲滅の声を挙げ続ける。それぞれが、身近なところでできること、見て見ぬふりをしないとか、困ったひとには声を掛ける、他人をいたわる、子ども達に「お早う」の挨拶をするなど。できることをやり、家庭でもご近所でも、平和についてみんなの幸福について、話しをするのです。
いま、日本は何かと元気がなくなっているといわれます。もう一度、元気な国にしたいですね。そして、精神的に豊かで、皆が幸福に生きていける世の中を実現したいですね。
そのためにいまこそ、日蓮聖人の生き方である、『強い信念』と『不屈の魂』を持って、小さな行いを日々積み重ねていきましょう。
そして、日本中の女性の皆様と、声高く、戦争反対を言い続け、叶えていきましょう!
その他のお坊さんコラム
「娘と過ごす中で」
OESHIKI HALLOWEEN CHRISTMAS
~ビハーラ活動から学ぶ~介護
合 掌
日々のくらしのなかで
お布施とは?
「心」
日本語を“鍛錬”する
和を以て貴しとなす
心のスペース
「満つれば欠ける」
心まるく