苦難を一つ乗り越え、そろそろ一人暮らしにも慣れたある日、実家に顔を出した私に「故郷へ帰ってきたような気がするかい?」そうやさしく発した父の一言に「東京で生まれ、山や川で遊んだこともないのにふるさとなんて思わないわよ」と多分私はそっけなく返した記憶があった。
数年後苦労をかけた母が逝き、頑張って生きた父も96歳の冬、静かに逝った。
心の支えを亡くした独り居の日々は唯虚しく、生前最後となった伊豆旅行の写真を手にしては、父母の声が聞きたいと切に思った。
ふと父の朝夕の読経の姿が浮かび、子どもの頃漠然と耳にしていた経文の意味は何であったろうと、そしてお経を唱えたならば父母を近くに感じられるのではないかと、思い出の写真に向かって夢中で経文を唱え、その両の手は自ずから合掌していた。なぜか涙があふれ父母を身近に感じ、心は静かであった。
「お父さん、私の故郷は紛れもなく父母でした」
謝罪と感謝でそう伝え、やがていのちの源である父母の懐へ、そして大宇宙に抱かれるその日まで、生きとし生けるものに合掌しつつ前進もう。合掌
by K.T