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沿革
正保3年(1646)の創立。開山陽善院日繕。開基檀越田中長勝。
江戸末期に本堂を建立し、大正3年及び昭和46年に修復、その後、庫裡、客殿を新築。古くは本門寺末寺であったが、不受不施事件に関連して誕生寺末になったことが、当寺の過去帳や境内にある日樹上人の供養塔から推定できる。
当寺の日蓮聖人坐像(寄木造り、彩色、王眼。像高36・7Cm)の台座裏の銘文には、寛文元年(1661)に大野(千葉県市川市)の法蓮寺18世日完が正永山了性寺の祖師像として開眼したことが記されている。
日完は不受不施のリーダーの一人として寛文5年(1665)12月に流罪となり、伊予吉田の伊達宮内少輔に預けられたが、おそらくこの事件に連座した了性寺から同派ゆかりの当寺に移されたものと思われる。
また、日樹上人の供養塔に関してであるが、本門寺15世であった日樹上人(1574~1631)は、身池対論と呼ばれる、受、不受をめぐる身延と池上の論争(公庭対決)を引き起こした不受不施派の巨頭で、天台学偏向に走る関西学派に反対して、日蓮の遺文を中心とする祖本主義を唱える関東学派を代表する学徒でもあった。
元和5年(1619)に本門寺に晋董して以来、中山法華経寺日賢、小西談林日領、平賀本土寺日弘等と共に不受不施を主張し、国恩の供養は受けるべきだとする受不施主義を唱える身延側の日乾、日遠、日暹等と対立した。
寛永3年(1626)9月15日、徳川秀忠の室崇源院が没し、幕府は9月23日~26日までの間、各宗の僧侶に対し増上寺で供養のための諷経を命じたが、日樹は謗法供養になるとしてこれを拒否した。この事が起因となって身池対論が惹起されることになったが、幕府の裁決で日樹は信州飯田に流罪となり、本門寺の歴代から除歴となった。これ以来不受不施派は禁教となった(戦後復活する)が、この供養塔はその禁教令のもとで久が原、雪谷、池上周辺の同派寺院や信徒の浄財で建立された。
江戸末期に本堂を建立し、大正3年及び昭和46年に修復、その後、庫裡、客殿を新築。古くは本門寺末寺であったが、不受不施事件に関連して誕生寺末になったことが、当寺の過去帳や境内にある日樹上人の供養塔から推定できる。
当寺の日蓮聖人坐像(寄木造り、彩色、王眼。像高36・7Cm)の台座裏の銘文には、寛文元年(1661)に大野(千葉県市川市)の法蓮寺18世日完が正永山了性寺の祖師像として開眼したことが記されている。
日完は不受不施のリーダーの一人として寛文5年(1665)12月に流罪となり、伊予吉田の伊達宮内少輔に預けられたが、おそらくこの事件に連座した了性寺から同派ゆかりの当寺に移されたものと思われる。
また、日樹上人の供養塔に関してであるが、本門寺15世であった日樹上人(1574~1631)は、身池対論と呼ばれる、受、不受をめぐる身延と池上の論争(公庭対決)を引き起こした不受不施派の巨頭で、天台学偏向に走る関西学派に反対して、日蓮の遺文を中心とする祖本主義を唱える関東学派を代表する学徒でもあった。
元和5年(1619)に本門寺に晋董して以来、中山法華経寺日賢、小西談林日領、平賀本土寺日弘等と共に不受不施を主張し、国恩の供養は受けるべきだとする受不施主義を唱える身延側の日乾、日遠、日暹等と対立した。
寛永3年(1626)9月15日、徳川秀忠の室崇源院が没し、幕府は9月23日~26日までの間、各宗の僧侶に対し増上寺で供養のための諷経を命じたが、日樹は謗法供養になるとしてこれを拒否した。この事が起因となって身池対論が惹起されることになったが、幕府の裁決で日樹は信州飯田に流罪となり、本門寺の歴代から除歴となった。これ以来不受不施派は禁教となった(戦後復活する)が、この供養塔はその禁教令のもとで久が原、雪谷、池上周辺の同派寺院や信徒の浄財で建立された。
定期行事
行事内容 | 日時 | 対象など |
---|---|---|
春季彼岸会 | 春分の日 | 檀信徒のみ |
盂蘭盆施餓鬼会 | 7月11日 | 檀信徒のみ |
秋季彼岸会 | 秋分の日 | 檀信徒のみ |
宗祖御報恩会式 | 10月28日 | 檀信徒・一般 |
紹介動画
寺院データ
供養内容 | 日時、お申し込みなど |
---|---|
塔婆供養 | 檀信徒 |
永代供養 | 檀信徒 |
施設 | お申し込みなど |
---|---|
永代供養塔 | 檀信徒、他 |
見どころ
- 春、彼岸前より枝垂桜の可憐な花が咲き始め、染井吉野、山桜と一斉開花。お堂が薄紅色に染まります。
- 秋、10月28日 宵の頃より宗祖を偲びお会式太鼓が市野倉に響きます。