
池上の朱門寺(あかもんでら)
- 【住職名】
- 52世 大場耀裕
- 【旧本寺名】
- 池上本門寺
- 【旧寺格】
- 紫 池上・芳師法縁
- 【本尊勧請様式】
- 一尊四士
- 【祖像】
- 読経像(慶応2年=1866)
- 【仏像】
- 釈迦如来像(寛保) 四菩薩像(大正3年) 鬼子母神像(大正8年)
- 【寺宝】
- 橋本雅邦筆「蟇仙人の図」 富岡鉄斎筆「帰山道雨の図」
お問い合わせなど
- 【所在地】
- 〒146-0082 大田区池上1-34-3
- 【電話】
- 03-3751-0017
沿革
元享年間(1321~24)の創立。開山大経阿闍梨日輪。初め久成院と称し、崇安寺と号した。
延宝年間に理境院妙浄日貞尼の寄進で堂宇を整備し理境院と改称。池上塔頭三院家の一。戦災で庫裡を焼失、昭和29年再建。宗祖自作、日輪感得とされる大黒天が、門前向側 (現在の宗務院の地)に祀られていたが、戦災で大黒堂が焼失、現在大黒天は本門寺長栄堂内に合祀されている。また本門寺常唱殿の日朝像は当寺より納めたという。本尊は台座下裏書によると、此尊像は元来西土教主阿彌陀悌とある(年代不祥)。しかし、寛保元年(1741)8月15日彼岸の時、通玄院日憲(34歳)が施主となり、師である長興長栄両山25世守玄院日顗聖人を点眼者として印契を造改し、三界独尊南無釋迦牟尼佛となられたと記されている(厨子には日顗聖人直筆の題目並に花押あり)。
また、祖師像は台座の下書きによると慶應2年(1866) 谷中大雄寺の日観聖人が施主となり唐白檀にて彫刻され、同年11月18日、長興長栄両山60世妙慈院日運聖人によって開眼されたとある。
なお当院の祖師像は当院17世十如院日因聖人の代、宝暦年間 (1751~1767) に宗近なる者が、祖師の木像に御衣の施主となって寄進して以来、以後御衣を着するに至る。
慶応3年、官軍の江戸城攻撃に際し西郷吉之助の宿舎となり、また明治11年には小学校校舎として堂宇を使用した。現在の池上小学校の前身である。
28世舜是院日如は村松海長寺47世へ。
47世大慈院日珖は片瀬龍口寺6世へ。
境内庭園は一月から二月は梅花並に葉牡丹が美しく、裏庭池の錦鯉も見事。
延宝年間に理境院妙浄日貞尼の寄進で堂宇を整備し理境院と改称。池上塔頭三院家の一。戦災で庫裡を焼失、昭和29年再建。宗祖自作、日輪感得とされる大黒天が、門前向側 (現在の宗務院の地)に祀られていたが、戦災で大黒堂が焼失、現在大黒天は本門寺長栄堂内に合祀されている。また本門寺常唱殿の日朝像は当寺より納めたという。本尊は台座下裏書によると、此尊像は元来西土教主阿彌陀悌とある(年代不祥)。しかし、寛保元年(1741)8月15日彼岸の時、通玄院日憲(34歳)が施主となり、師である長興長栄両山25世守玄院日顗聖人を点眼者として印契を造改し、三界独尊南無釋迦牟尼佛となられたと記されている(厨子には日顗聖人直筆の題目並に花押あり)。
また、祖師像は台座の下書きによると慶應2年(1866) 谷中大雄寺の日観聖人が施主となり唐白檀にて彫刻され、同年11月18日、長興長栄両山60世妙慈院日運聖人によって開眼されたとある。
なお当院の祖師像は当院17世十如院日因聖人の代、宝暦年間 (1751~1767) に宗近なる者が、祖師の木像に御衣の施主となって寄進して以来、以後御衣を着するに至る。
慶応3年、官軍の江戸城攻撃に際し西郷吉之助の宿舎となり、また明治11年には小学校校舎として堂宇を使用した。現在の池上小学校の前身である。
28世舜是院日如は村松海長寺47世へ。
47世大慈院日珖は片瀬龍口寺6世へ。
境内庭園は一月から二月は梅花並に葉牡丹が美しく、裏庭池の錦鯉も見事。
定期行事
行事内容 | 日時 | 対象など |
---|---|---|
春季彼岸会 | 彼岸中日午後2時 | 檀信徒 |
盂蘭盆施餓鬼会 | 7月12日午後2時 | 檀信徒 |
秋季彼岸会 | 彼岸中日午後2時 | 檀信徒 |
宗祖御報恩会式 | 10月12日午後5時 | 檀信徒 |
紹介動画
寺院データ
施設 | お申し込みなど |
---|---|
分譲墓地 | 要問合せ |
永代供養塔 | 要問合せ |
見どころ
- 梅花、桜花、牡丹、葉牡丹、つつじ、さつき、百日紅、ルピナス、芝生 他
- 境内庭池の錦鯉30匹以上(1年中)
史跡、文化財など
- 西郷隆盛宿泊の地
- 大田区立池上小学校発祥の地